いよいよ今回の記事で、邪馬台国の場所を比定します。『邪馬台国の全解決』の孫宋健氏の説に大枠は準じていますが、若干の補正を行っています。
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前回のブログでは、『魏志倭人伝』は理念上の邪馬台国を記していると述べた。
理念であっても実態と違えば嘘である。それでは、『魏志倭人伝』は理念と忖度で嘘にまみれた書なのであろうか?
『邪馬台国の全解決』で孫宋健氏は、陳寿は筆法を駆使して記していると言っている。
筆法とは聞きなれない言葉であるが、春秋の筆法に由来するという。『春秋』は魯国十二代の年代記であるが、その筆者の孔子は、その君主の死亡記事の書式を錯(たが)えて書くことで、表面の記事には一切あらわれない裏の史実や筆者からの褒貶の意を込めているという。
例えば、君主の死を以下のように記述する。
①隠公 十一年、冬、十有一月壬辰、公が薨ぜられた。
②桓公 十八年、夏、四月丙子、公が斉で薨ぜられた。
③荘公 三十三年、八月癸亥、公が路寝で薨ぜられた。
④閔公 二年、秋、八月辛丑、公が薨ぜられた。 (以下続く)
ここまででも3種類の書き分けがあるという。
正式には③のように、公が宮殿の室内(路寝は部屋の名前)で亡くなったと書くらしい。しかし、①④は「公が薨ぜられた」と場所を記載していない。これは国内で暗殺されたことを示している。場所を書かないことで、逆に特別な事情=暗殺を示しているという。また。②は他国(斉)で薨ぜられた、とあるが、これは斉により暗殺されたことを示しているという。
このように敢えて書式を錯えることで言外に意味を込めることを、孫宋健氏は筆法と呼び、これを使うことは中国の史家の常套であり、『魏志倭人伝』でも筆法が使われていると言う。
ここまでの説明を聞いて、振り返って『魏志倭人伝』の文章を思い浮かべると、確かに書式を錯えている箇所があると気づく。有名な箇所なので読者も思い浮かべるかもしれない。そう、帯方郡から邪馬台国に至るまでの道程の記述である。
『魏志倭人伝』では、伊都国までは「千余里にして末盧国に至る」というように、「△△里にて〇〇に至る」という記述であるが、伊都国以降は「東南して奴国に至る。百里なり」と「〇〇に至る。△△里なり」と錯えている。豊田伊三美氏・榎一雄氏(※)が放射説を唱える根拠である。
※注)放射説は、東京大学の榎一雄氏の発案と考えられているが、実はそれ以前に豊田伊三実氏が学会誌に発表している。そのため、このブログでは両氏を併記している。
連続説で邪馬台国の位置をプロットすると、九州の遥か南、沖縄か宮古島あたりとなる。そこで畿内説は南を東と読みかえて、邪馬台国を畿内に比定する。
しかしながら、『魏志倭人伝』では、「其の道理を計るに、正に会稽・東冶の東に在るべし」と奇妙な言い回しで断じている。
連続説で読み解く邪馬台国の地と、会稽・東冶の東という地理、そして魏が敵対する呉を海上から牽制する場所として見事に一致する。
陳寿は邪馬台国の理念上の地への道程として連続説的読み方が可能な記載をしたのだと推察する。しかし「在るべし」という奇妙な言い方は反語であり、実際は別の場所だよと暗示している。
では、実際の場所はどこなのか。陳寿は筆法を巧みに使い『魏志倭人伝』の中に記述をしている。忖度と理念の記述と真実の記述を併存させていると言うのだ。
孫宋健氏は、その解読ヒントとして『魏志倭人伝』での記載と、後の時代に編纂された『晋書』の記載との錯えを参考にすべきという。
『魏志倭人伝』では対馬国1,000戸、一支国3,000戸、末盧国4,000戸、伊都国1,000戸、不弥国1,000戸、奴国20,000戸、投馬国50,000戸、邪馬台国70,000戸と記載がある。
私たちや過去の学者たちは、最後の70,000戸の集落である邪馬台国の地を探していた。しかしながら『晋書』では、「魏の時に至りて、三十国の通商あり。戸は七万戸有り」と、三十国の合計が七万戸と言っている。これはどういうわけか。『晋書』の作者が陳寿の筆法を解読した結果だという。
また、『魏志倭人伝』では、女王卑弥呼の国の書き方にも錯えがある。「邪馬台国」「女王国」「女王の都する所」「倭国」である。従来は何の疑いもなく「邪馬台国」=「女王国」であり、それは伊都国、不弥国、奴国と道のりが続くその先に位置すると考えてきた。
しかし、『晋書』での三十国全体の戸数の七万戸の記述と『魏志倭人伝』での邪馬台国70,000戸の記載の錯えを考えると、陳寿は三十国全体を邪馬台国と称していたのではないか。そうすると女王国の都する所は別にあるのではなくこの三十国のうちの一つであるはず、というのが孫宋健氏の仮説である。
豊田・榎説では見過ごされているが、投馬国に至る「水行すること二十日なり」、女王の都する所への「水行すること十日、陸行すること一月なり」も他の記述と比べると大きな錯えである。なんとこの日程は帯方郡からの日程だと孫宋健氏は喝破する。いわば大放射説(←ネーミングは当方オリジナルかもしれません)である。
以上をトータルに表すと以下の図となる。
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恐るべき陳寿、恐るべき中国の史家たち、恐るべし孫宋健氏と感嘆するばかりである。
陳寿は邪馬台国を会稽・東冶の東にプロットし、戸数7万戸の相当勢力を持つ長寿で徳のある国と記すことで、魏への朝貢の道筋をつけた司馬懿を持ち上げている。
それだけではなく、筆法を駆使することで正しい邪馬台国を併せて記しているわけである。一方、後の史家たちは陳寿の筆法を解読し、自らの編纂する史書でさりげなく正解を記しているというわけである。
結論的に言えば、邪馬台国とは、伊都国・奴国を中核とした北部九州30国のことである、というのが孫宋健氏の仮説であり、当方も賛同する。
(探訪する古代史、引き続きのテーマ)
以上、私が邪馬台国北九州説をとるに至った論拠を紹介した。古代史を探訪する過程の中ではほんの一部であるが、寄って立つべき一つの仮説を持つことができたと、喜んでいる。
引き続き探訪するテーマとしては以下を考えている。
- 呉・越の滅亡、徐福到来。古代日本の成り立ちをイメージする
- 古代史のラスボス・饒速日(にぎはやひ)を探訪する
- 神武東征。なぜ神武は畿内入りをしたのか?
- 古代の信仰と天文学。太陽の道はどのようにできたのか
- 張政は本当に邪馬台国に来たのか?
順不同で興味の赴くまま、探訪する予定である。時には一気に、時には途切れ途切れに。乞うご期待、いや、あまり期待しないでいただきたい。
(参考文献)
『邪馬台国の全解決』孫英健 言視舎
『ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社
『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院
『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書
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