VERY BOOKS ~ 本棚の「本」たち

古代史、進化論、量子力学、宇宙、スモールビジネスモデル、日本語の成り立ち等、 興味分野を本棚の「本」たちと語ります。

漂泊する避難民・上陸する探索人(2)

 前章では呉の滅亡(紀元前473年)、越の滅亡(紀元前334年)において、日本列島に避難民が漂泊したという仮説を紹介した。

 

 まずは、呉の滅亡に伴う避難民の漂泊の文献や考古学上の痕跡について、紹介する。

 

(呉の民~北部九州への漂白)

 呉の民の漂泊のその痕跡を探索する。第一は北部九州。『魏志倭人伝』の記述では、次のようにある。

「男子は大小となく、皆黥面文身す。」

 呉を建国した太伯は、周の王子でありながら呉に自ら下った。二度と周には帰らないという意志を込めて土地の人間と同じように「黥面文身(入れ墨)」を入れたという逸話がある。邪馬台国の習俗と同じである。

 

 また、『魏志倭人伝』の少し前に成立したとされる『魏略』(魚豢の作)の逸文では、倭人の記載として、

「自謂太伯之後(自ら太伯の後裔と云う)」

と記されている。後に記された『晋書東夷伝』『梁書東夷伝』もその一文を記している。

 すなわち『魏略』が記載する当時使役を通じていた倭人は、口々に「私は呉王の太伯の末裔」だと主張したという。

 

 『後漢書東夷伝』では「使駅の漢に通ずる者、三十計の国ありて」、『魏志倭人伝』では「今、使役の通ずるところ三十国なり」、の記述を考えると、紀元前473年に越に滅ぼされた呉の国の王族・貴族たちは北部九州に漂泊し、稲作文化や青銅器文化を持ち込みムラ・クニを形成し、約500年後の1世紀前後には奴国やその周辺三十国を形成するに至ったと考えてもいいのではなかろうか。

 

「国ごとに皆王と称し、世世統を伝う」(『後漢書東夷伝』)

「古自り以来、其の使いの中国に詣るときは、皆、大夫と称す。」(『魏志倭人伝』)

 

の記載からは、相当のプライドを持った方々と感じられる。越に滅ぼされた呉の民の中でも、特に逃げざるを得なかった王族・貴族の一団だったからだろう。

 海への逃亡から約500年、異国の地で一からクニづくりをしてついに漢王から「漢委奴国王印」の称号を得るまでになった。そう考えてこれらの文を読むと万感さが一層伝わってくる。

 北部九州では、板付遺跡をはじめとする縄文晩期~弥生時代初期の水稲稲作の跡が数見つかっているが、その多くは稲作技術をもった呉の民が漂泊し、定住した地と推測する。

 

板付遺跡 ~ 福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代中期の集落遺跡。小竪穴,井戸,堀,甕棺墓,水田址,大陸との交流を物語る銅剣,銅鉾,磨製石器が発見されている。特に土器は弥生時代最古のもので板付式土器の標式とされ,弥生文化の源流を考えるうえに重要な位置をもつ遺跡である。

 

(呉の民~南九州への漂泊)

 一方、南九州への痕跡としては小嶋浩毅氏の『古代日本国成立の物語』を一部引用させていただく。

鹿児島県霧島市隼人町内に、大隅国一之宮の鹿児島神社がある。主祭神は海幸山幸の弟の方であり神武天皇の祖父にあたる山幸彦の天津日高彦穂々出尊であるが、相殿神として呉の祖である太伯を祀る。鹿児島神社は太伯を祀る国内で唯一の神社である。

また宮崎県の諸塚山(もろつかやま)には、太伯が生前に住んでいて死骸に葬られたという伝承がある。「太伯山(たいはくさん)」とも呼ばれている。(以上、引用終わり)

 

呉の王族・貴族達の漂泊は各地に及んだと推測するが、明示的に痕跡があるのが奴国を中心とした北部九州と、後に隼人の地と言われた南九州の地である。また、出航した江南の地から考えると、沖縄・奄美等の地への漂泊も想像できる。

 

 引用させていただいた小嶋氏の説では、概ね「呉の末裔=隼人=熊襲=狗奴国=日向三代」と比定するが、当方は「呉の末裔=隼人」までは同じだが以降は異なる立場をとる。引用しておきながら、申し訳ない。当方の立場は当ブログを通じて明らかにしていきたい。

 

 次回は、越の滅亡に伴う避難民の漂泊の文献や考古学上の痕跡について、紹介する。

 

(参考文献)

魏志倭人伝の謎を解く』渡邉義浩 中公新書

邪馬台国の全解決』孫英健 言視舎

ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院

『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書

『幻の邪馬台国宮崎康平 講談社

倭国伝』藤堂明保 他 講談社学術文庫

邪馬台国 清張通史(1)』松本清張 講談社文庫

『古代日本国成立の物語』小嶋浩毅

 

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