これまで、
・呉の滅亡による、王族・貴族の海への脱出
・越の滅亡による越の民(かつての呉の民も含む)の海への脱出、海岸沿いの北上
・徐福一団の2度にわたる出航の様子と彼らのその後を探訪してきた。
さらに、邪馬台国の時代である3世紀までの経緯も含めて、以下まとめることで、最終章としたい。
【北部九州の勢力図】
呉の王族・貴族集団がいち早く、博多湾周辺に奴国をつくり、稲作を始めた。クニとしての勢力を確固たるものとし、漢王から漢奴倭国王の金印を授けられるほどになった。
また、その周辺には後着の越の民や縄文人、そして佐賀平野に上陸して勢力を伸ばしてきた徐福グループのクニが乱立して争いをしている状況となっている。
一方、朝鮮半島には海岸沿いに遷ってきた越の民が拠点を持ち、同じく倭人と呼ばれていた。
そんな混沌とした状況の中で、3世紀の中ごろに徐福の末裔のグループが主導権を持ち、周辺国と邪馬台国連合を結成し、卑弥呼を共立した。
【南九州の勢力図】
太伯の末裔(呉人)が辿りつき、隼人と言われる集団となっていた。
徐福グループがその後、笠沙の岬に上陸したが、その地を通り抜け日向の地を拠点とした。隼人一族とは姻戚関係となっている。佐賀平野に上陸した徐福グループとは連絡を取り合っており、邪馬台国連合の一員となった。投馬国である。
宮崎県の檍(あおき)遺跡は弥生時代前期の墓地遺跡であるが、出土する土器は板付式土器との類似性がみられ、北部九州との交流があったと推測できる。
【中部九州の勢力図】
今の熊本県周辺では、邪馬台国と争った、狗奴国(熊襲)が拠点を持っていた。
狗奴国の勢力範囲は、免田式土器の出土の分布とほぼ同じ地域ではないかと推察するが、この勢力の出自について定説がない。
免田式土器の分布図(松田度氏作成)
また、北部九州のクニとの争いの痕跡では鉄器の利用がみられることから、製鉄のノウハウを持つ集団が熊本平野に漂泊したのではないか。2002年の調査によると、鉄器の出土数は、熊本(1890)、福岡(1740)、鳥取(1000以上)と国内最多である。(奈良は多く見ても13点くらいと少ない)
あくまで仮説の1つであるが、製鉄のノウハウという点では、出雲・高志、狗邪韓国とも通じており、越の民の末裔が大陸ぞいに狗邪韓国に製鉄技術ももたらし、また海を漂泊して出雲・高志、そして狗奴国にもたらしたのではなかろうか。
狗奴国(熊襲)もまた、越の民の末裔なのかもしれない。
「川越哲志氏 弥生時代鉄器総覧 2000年」
この章で一旦、「漂泊する避難民・上陸する探索人」に関しては一区切りとさせていただきたい。アウトプットするには、その何倍もの時間をかけたインプットと熟成が必要であることを実感している。
このテーマに関しては、当面の間、インプットと熟成に励みたい。
(参考文献)
『邪馬台国の全解決』孫英健 言視舎
『ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社
『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院
『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書
『古代日本国成立の物語』小嶋浩毅
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