VERY BOOKS ~ 本棚の「本」たち

古代史、進化論、量子力学、宇宙、スモールビジネスモデル、日本語の成り立ち等、 興味分野を本棚の「本」たちと語ります。

量子たちの奇妙な振る舞い(1)~『鏡の中の物理学』

『鏡の中の物理学』朝永振一郎(著)を読んだ。


AI(人口知能)に関するセミナーの2次会の場で、講師であるN先生と某理科系大学出身のKさんとの会話で量子コンピュータの話となった。当方、文系だが「量子の奇妙な振る舞い」は最近のマイブームなので耳をそばだてた。「観測して値を決めながら順番にロジックを進めるのでなく、観測しないで値を決めずにロジックを進めるから超高速なのですね」なんて問答を聞くと、分かったような分からないような。

Kさんに文系でもわかる量子力学の入門書を尋ねるとこの本であった。Yさん自身もかつて指導教員から、この本を勧められたらしい。

「鏡」に関していうと、幼少のときには義姉の三面鏡を覗いては、無限に自分の姿が繰り返されるのを見るのが好きだった。
その後、江戸川乱歩の『鏡地獄』~レンズ好きの男が究極の多面鏡の中に入る話~では、妙な納得感を持ったりした。

また、マーチン・ガードナーの『自然界における左と右』の冒頭の設問「鏡を見ると左右逆に見えるのだが、何故上下逆に見えないのか」については、今もその解答を考え続けている(※1)。

「物理学」では、学校でニュートン物理学を習いインプットの値(速度や力)がわかればアウトプットの値(数秒後の状態)が正確にわかることを知った。
そこで疑問を持った。それじゃ、そのインプットの値はその前のインプットの値が決まった時から決まっている。その前も、そしてまたその前も。
この実験をする私の頭の中や、その日の天気も、同伴する人たちの行動もその前から決まっている。
それじゃあ、これからの全ての未来が既に決まってしまっているのではないか!?という、かなり深刻な疑問である。


その後、ブルーバックス不確定性原理都筑卓司(著)を読んで、量子(光や電子のような極小の物質の単位)の世界になると、今の状態やその後の振る舞いは、確率的にしかわからないということを知った。だったら、人生いたるところにサイコロ(※2)を振るチャンスがあるのだろうと安心した。
しかしながら、「測定できないから確率的にしかわからない」のか、「そもそもの量子の振る舞いが本質的に確率的なもの」なのか、未だに漠然としており一抹の不安は残っている。私的には後者であることを祈っている。

 

このように、「鏡」と「物理学」は自らの興味に隣接しているのもかかわらず、『鏡の中の物理学』は発刊後46年もの間、その存在を知らなかった。
しかも、その著者は当時日本人で3人だけのノーベル賞受賞の朝永先生なのにである。
思い返してみても、理科の先生からファラデーの『ロウソクの科学』を勧められた記憶はあるが、『鏡の中の物理学』については皆無だ。


いろいろと想い巡らせながら、100ページ余りの文庫本を読み始めた。
平易な言葉を使っての解説ではあるが、簡単には読み進めない。
金縛りにあったかのようである。何度目かの挑戦時に、気づいた。
これは46年前の天才物理学者と、現代の凡人(しかも文系)の時空を超えた対話であるのだと。
そこは、朝永先生が学んだ先人たちニュートンアインシュタインディラック、ハイゼンベルグ等)の研究、そしてその当時から今日までの量子物理学研究成果をもインクルードした(包み込んだ)「場」であったのだ。

 

誤解を恐れながらも、そこでの内容を紹介する。

 

前半の「鏡の中の物理学」では、物理学者(朝永先生ご自身を含む)における「物理法則は、空間・時間に対して『対称性』を持つはずである」という信念の話。
この信念を証明し続けることが物理学者の矜持であることを、ニュートン力学、熱力学・エントロピーの法則、リーとヤンの「パリティ対称性の破れ」実験とその解釈、そして最後には特殊相対性理論までを繰り出し、一気に説明している。「エントロピー」とか「パリティ」とかの専門用語は使わずに。

 

後半の「素粒子は粒子であるか」「光子の裁判」では、2重スリット実験における奇妙な量子の振る舞いを、丁寧に説明している。
これは、2つの窓がある壁に向かって放たれた光子(光の粒子)は、あたかも波であるかのように2つの窓を通り抜け、その背後のスクリーンに干渉縞を作る。
干渉縞ができることが、光は波として2つの窓を同時に通り抜けた証拠。
しかし、この窓の前に観測機を設置し、一個一個の光子を観測するとそれはどちらかの窓を通る。しかもスクリーンには干渉縞を作らなくなる。ここでは光は粒子であるという証拠となる。

 

このようにあまりに奇妙な量子の振る舞いを、朝永先生自身が検事になりその理不尽さを裁判官(読者)に訴える。しかしその後は弁護士になり実証事件を通じて、被告である波乃光子が、「不可分の一個体でありながら、2つの窓をいっしょに通り抜けることもありえる」ことを訴えている。
まるで、禅問答である。

当時、どれだけの人たちが読んだのだろう。そして理解できたのだろう。
読んだ学校の先生も理解したとしても、どのように生徒に説明したらいいかも分からない。
確かに、当時生徒に推薦できる本ではなかっただろう。


奇しくも今年(2022年)10月、「量子情報科学」の先駆者として3人の学者がノーベル物理学賞を受賞している。
これは、光子の裁判以上に奇妙な量子の振る舞いである「量子もつれ」現象を実験により証明したという功績。

 

量子もつれ」とは、いったん二つの粒子に量子もつれの関係ができると、どんなに遠く引き離されても片方の粒子の状態が変化すると、それに応じてもう一方の粒子も瞬時に変化するという現象である。

「うん!?」。

前述の「光子裁判」以上に、奇妙でな現象でほとんど心霊現象だ。アインシュタインも「不気味な遠隔作用」と言って、信じなかったらしい。
しかしながら、受賞した3人のうちの1人ツァイリンガー博士の実験では、この原理を使い、ある粒子の状態を離れた場所にある別の粒子に瞬間的に移す「量子テレポーテーション」の実験に成功しているというのだ。また、この現象は、量子コンピュータに実際に応用されているらしい。

これを受けてのマスコミの反応や、話題を振った友人達の反応を思い返すと、妙な既視感を感じる。
1965年に朝永先生がノーベル物理学賞を受賞した時や、46年前に『鏡の中の物理学』を出した時も、同じ空気感だったのではないか。
いや逆かな。『鏡の中の物理学』の時代から現在を視た既視感だ。

「なんだかすごいが、私には無関係」
「理論と現実は違うだろう」
「理論の話であり、実用化されてこその科学だよね」
「目の前のことしか信じられない」
「興味ない世界」

これほど科学技術が進歩し、また、インターネットの普及で情報の障壁が無くなっているにも関わらず、「量子力学」に関しては、その最先端で分かってきたことが世の中一般に認知されていないように感じる。
46年前とまるで状況が変わっていない。
朝永先生が現状を見ると、「なんや、変わってないなー。今度は量子もつれ裁判の本でも書こうか」と思うのではないか。


私自身は、凡人・文系人間であるが、量子力学」には人類の常識を覆し新たな方向に向かわせる無限の可能性を感じている。
一方、この分野を研究する一部の(超)天才たちと、我々凡人の距離が遠ざかりすぎたようにも思う。
その両者をインタープリターする組織や、人材ももほとんど見当たらない。
この分野があまりに難解(数学者でも顔をしかめる独自な数式が頻出するらしい。。)で、その示す結果もあまりに奇妙であることがその原因と推察する。

 

勇気をもってこの両者を丁寧に橋渡しするテレビ番組(特にNHK)や、科学ジャーナリスト・評論家の出現、活躍を期待している。

 

『鏡の中の物理学』講談社学術文庫 朝永振一郎(著)

 

(※1)『自然界における左と右』紀伊国屋書店 マーチン・ガードナー(著)

この本は400P超の本だが、私にとっては難解で今もって冒頭の設問のページ(4P目)に留まっている。松岡正剛氏も千夜千冊で紹介している。

0083夜 『自然界における左と右』 マーティン・ガードナー − 松岡正剛の千夜千冊 (isis.ne.jp)


(※2)ニュートン力学的に言えば、サイコロの形状と、降る力、落下した地面の形状で、何が出るかは決まってしまうので、ここでのサイコロは「神のサイコロ」と読み替えてください(苦笑)。。

 

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