友人2人と古代史実地踏査ツアーを、毎年続けている。
今回は4月21日~23日、讃岐・阿波へのツアーである。
このプライベートツアーは、2013年から始まるのだが、
弥生時代~古墳時代の神社・遺跡・古墳を巡ることで、古代日本の成り立ちを体感、妄想しようというものである。
これまで纏向・葛城・日向・高千穂・熊野・出雲・丹後・吉備・埼玉・北部九州と巡ってきたが、今年で11回目。
今までに比べて、讃岐・阿波は少しばかりマイナーな感じもしたのだが、私的には大きな発見があった。
その一つが、萩原2号墓(徳島県鳴門市)。
弥生時代終末期(3世紀前葉)の墓で、墳丘径が約21Mと小さいのだが、いわゆる「ホタテ貝」の形をしており、纏向(奈良県)のホケノ山古墳(後円部径55M)や纏向石塚古墳(後円部径64M)のいわゆる「纏向型前方後円墳」の原型とも言われるらしい。
ホケノ山古墳は、第一回のツアーで実地踏査している。
ホケノ山古墳(2013年6月16日、実地踏査)
てっきり、前方後円墳の発祥の地は纏向とばかり思いこんでいた私にとっては、驚きである。そして、教科書もあった「纏向は全国各地から人々が集まった連合都市国家」のフレーズと響き合い、当時を思い浮かべるための重要なピースを得た気持ちになった。
ちなみに、纏向が全国各地から人々が集まった連合都市国家であることは、纏向から出土した土器を分類・整理した結果から言われている。
纏向で出土する土器の多くが外来系土器で、しかも東海、北陸・山陰、河内、吉備、近江、関東系、播磨、西部瀬戸内海、紀伊など多岐にわたるからである。
纏向型前方後円墳が造られる3世紀前半に対応する纏向2式(暦年は210年~250年と比定(石野博信))では15%が外来系土器が占めている。
この時期の外来系土器の中に播磨からのものが含まれるが、「播磨・讃岐・阿波」と読み替えても差し支えないだろう。
まさに萩原2号墓を造っていた集団が纏向に移動し連合国家の一員となり、纏向型前方後円墳の造営にも一役買っていたと考えてもおかしくはない。
このことを思い浮かべた瞬間、少しばかりマイナーと感じる讃岐・阿波の実地踏査は、当時のメジャーどころ纏向ひいてはヤマト王権誕生の様子を思い描くことができる実地踏査となった。
今後の実地踏査で、他の外来系土器の他の出身地を巡るのも興味深い。
同様に、中央(ヤマト)と地方(讃岐・阿波)が響き合う事例をもう1つ。
讃岐・阿波ではその後、讃岐型と呼ばれる小型(全長40M未満)の前方後円墳が山稜部に盛んに造られる。
ところが、4世紀中頃から5世紀に入ると、墳丘長が100M級の古墳が比較的平地に造られる。
四国3大古墳と呼ばれる、快天山古墳(香川県、墳丘長98.8M、4C中頃)、渋野丸山古墳(徳島県、墳丘長105M、5C前半)、富田茶臼山古墳(香川県、墳丘長139M、5C前半)などである。
そして、これ以降、従来の小型の前方後円墳はパタリと造られなくなる。
この時期、ヤマトでは百舌鳥・古市古墳群が造営され、古墳時代の最盛期(4世紀後半から5世紀後半)となるのだが、河内勢力が従来の大和勢力に替わって政権中枢を掌握した(河内王朝説)とも言われている。
当方、河内王朝を論じる見識は持たないが、この時期に、ヤマトの地と讃岐・阿波それぞれに権力の入れ替わりがあり、なんらかの形で連動していたのだろう。
ヤマト王権の成立過程を想像するには、地方の実地踏査が重要なことを身をもって体験したツアーであった。
(参考)
古代史実地踏査チーフプランナー 小嶋浩毅氏の報告レポート
古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)① - 古代日本国成立の物語 (goo.ne.jp)
(参考図書)
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『倭国の古代学』坂靖
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