VERY BOOKS ~ 本棚の「本」たち

古代史、進化論、量子力学、宇宙、スモールビジネスモデル、日本語の成り立ち等、 興味分野を本棚の「本」たちと語ります。

『魏志倭人伝』を探訪する(1)

 小学校6年生の時に宮崎康平氏の『幻の邪馬台国』を読んだ。年の離れた兄が読んでいたものを盗み読みしただけである。それでも、盲目の作者が自らの杖で遺跡周りの土の感触を確かめながら調べ歩く記述は、とても印象的であった。

 それから50年ばかり経ったが、最近は仲間達と「古代史実地踏査」と称して各地を巡っている。三輪・纒向、高千穂・西都原、紀・熊野、平原・吉野ヶ里、出雲・丹後、埼玉・稲荷山、と古代史の舞台を探訪してきた。また、関連する古代史本も読んできた。どちらも、古代史の情景を思い浮かべる探訪である。

 自らの頭の中で思い浮かべるだけでなく、少しでもアウトプットをしたいと、当ブログを開始した。どこまで継続できるか自分でも期待していないが、できることなら応援頂きたい。

 まずは、オーソドックスに邪馬台国から考察していきたい。

 

(はじめに)

 邪馬台国を考察する一番の根拠となるのは、陳寿の『魏志倭人伝』である。范曄の『後漢書 東夷伝』や唐の太宗の命により編纂された『晋書』にも記載がある。いずれも中国王朝の正史24史の一つである。

 この3史を主に記述する年代順で並べると、『後漢書 東夷伝』→『魏志倭人伝』→『晋書』であるが、編纂された年代順に並べると、『魏志倭人伝』(3世紀後半)→『後漢書 東夷伝』(5世紀)→『晋書』(7世紀)となる。

 『後漢書 東夷伝』や『晋書』の作者は邪馬台国を記述する際に、陳寿の『魏志倭人伝』を参考にしていることは明らかであり、マスターである『魏志倭人伝』が一番の根拠となる理由である。それでは、他の2史に意味が無いかというと決してそうではなく、『魏志倭人伝』との微妙な記述の差を読み解くことで初めて見えてくる真実もある。これについては後述する。

 一方、『魏志倭人伝』のみを純粋に読み解き邪馬台国の場所を比定し、これを「科学的」と称する書も存在する。邪馬台国ひいては古代史を考察するには、魏志倭人伝、その他の中国の史書古事記日本書紀等の日本の史書、考古学、社寺伝承等の民俗学をトータルに捉えた多次元方程式による考察が必要と考える。

 

(北部九州説と畿内説)

 邪馬台国の場所については数々の説が存在する。北部九州説と畿内説が代表的であるが、各地にその比定地がある。私の故郷である福井県鯖江市周辺もその一つである(笑)。

 『魏志倭人伝』の方角・距離をそのまま地図にプロットすると、はるか南方の海の上に存在することになる。畿内説は方角を読みかえることで解決し、北部九州説は距離を読みかえることで解決しようとするが、『魏志倭人伝』の解釈だけでは優劣がつかない状況が古来続いている。

 私見では邪馬台国=北部九州と考えるが、それは当時の邪馬台国と大陸との関係と、考古学上の調査結果から導きだせる。これは『考古学から見た邪馬台国大和説』で関川尚功氏が、『ヤマト王権の古代学』で坂靖氏(いずれも奈良県橿原考古学研究所で発掘・調査に従事)が論述されていることだが以下説明する。

 『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は景初2年(西暦238年)6月に魏に朝貢すべく帯方郡に使いを出している。その地域に勢力を持っていた公孫氏はその年の8月に魏の将軍である司馬懿に滅ぼされている。景初2年6月はまさに戦いの中であり、そんな最中に帯方郡楽浪郡の南)を経由して魏に朝貢などできないので景初2年は景初3年の間違いとされている。『梁書倭国伝』でも、魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて魏に使いを遣わして朝貢したと記されている。

 逆に言えば、公孫氏が楽浪郡帯方郡を支配していた2世紀後半から3世紀中頃までは、邪馬台国や使訳を通ずる所の三十国は、公孫氏と使訳を通じていたと考えられる。『晋書』の倭国に関する記述「卑弥呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見」の前半部分を「卑弥呼は、宣帝が平定した公孫氏である」と解釈する説もあるくらいである。

 この説の是非はここでは論じないが、当時の邪馬台国楽浪郡帯方郡と密接な交流があったことは間違いない。しかも公孫氏の滅亡の翌年に魏に朝貢するという外交的機敏さを考えると相当密接な交流であったと考えられる。

 一方、考古学の面からみると、3世紀中ごろの畿内では大陸との交流を裏付ける出土物が確認されていない。また畿内説がその有力地とする箸墓古墳纏向遺跡の発展は4世紀に入ってからである点を関川氏、坂氏は説いている。その詳細はここでは割愛するが、以下にて楽浪系土器の分布図を紹介する。これを見ると楽浪郡帯方郡と密接な交流をしていた邪馬台国の場所が自ずと見えてくるのではないか。私が北九州説に立つ一番の根拠である。

ヤマト王権の古代学』坂靖 より転載

 

楽浪系土器

楽浪土城(現ピョンヤン市内)など楽浪郡で生産され、使用された土器。

胎土に滑石が含まれている軟式土器に加え、ロクロを使用しあな窯で焼いた瓦質土器がある。また植木鉢(花盆)形、鼎形、甑形、壺形などその器形にも特色がある。

 

 第一回では、自らの立ち位置(邪馬台国北九州説)とその根拠を紹介した。

次回以降は『魏志倭人伝』が記された時代背景と作者である陳寿の史家という立場。そこから邪馬台国の場所を探訪してみよう。

 

(参考文献)

ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院

『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書

『幻の邪馬台国宮崎康平 講談社

倭国伝』藤堂明保 他 講談社学術文庫

 

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