VERY BOOKS ~ 本棚の「本」たち

古代史、進化論、量子力学、宇宙、スモールビジネスモデル、日本語の成り立ち等、 興味分野を本棚の「本」たちと語ります。

漂泊する避難民・上陸する探索人(3)

 前章では越による呉の滅亡(紀元前473年)により、日本列島に避難民が漂泊したという仮説を紹介した。今回は、その越の滅亡による避難民の漂泊について述べる。

 

(越の滅亡)

 呉の滅亡から140年後の紀元前334年に、今度は越が楚によって滅ぼされた。王族・貴族の一部は海路南下し、現在の福建省の地に現地の百越(ひゃくえつ)族と共同して閩越(びんえつ)を建てた。一方、取り残された一般庶民達(かつての呉の民を含む、越の人々、以降「越の民」と記す)は、陸地を海沿いに北上するか、かつての呉の王族・貴族のように海へと出航したと考えられる。

 

 彼らはどのようなルートで日本のどこに漂泊したのであろうか。中田力氏は『古代史を科学する』で、次のような仮説を紹介している。

 

 「呉の滅亡時と同じような経路で北九州に辿りついていたとしても、それほど不思議なことでない。ただ、その地には既に約140年の歳月をかけて勢力を蓄えてきたもともと呉の民がいた。加えて彼らを率いていたのは自分たちよりも高い家系の王族・貴族の末裔である。その地に留まることは許されず、さらに奥地へと向かって日本海を進まざるを得なかった。そこは出雲・高志の地である。」

 

 越の民が出雲・高志(越)の国を造ったという説は、多くの在野の研究家たちも述べていることである。越の国(福井県)出身の当方としても、この説に乗っかっている。

 

 また、『新説・倭国史』で山本廣一氏は、中国の文献に記載される「倭」の位置と時代から、越の民の移動経路を以下の図のように示している。

 この説に全面的に賛同するわけでは無いが、越の民が日本列島に移動してきたルートの一つと捉えてもいいのではなかろうか。朝鮮半島南端の狗邪韓国は倭人の拠点であると知った時には若干の違和感があったが、倭人の集団の幾つかは狗邪韓国経由で日本に辿りついていると考えると納得である。

 

 農学博士の佐藤洋一郎博士によると、日本の水田で作られている温帯ジャポニカ米において多くの種類が「RM1-b遺伝子」持つ。中国では90品種中61品種が「RM1-b遺伝子」持つが、朝鮮半島では55品種を調べても見つからなかったという。

 

 これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠でもあり、先着の呉の王族・貴族グループ、続いての越の民の多くは直接日本列島に辿り着いたと考えられ、彼らが温帯ジャポニカ米を日本にもたらしたと考えられる。

先の山本廣一氏の示す「倭人の移動経路」は慧眼ながらも呉・越の民の移動経路の一部を示したものであると判断する。

 

(出雲への漂泊)

 前述のように中田力氏は、後着の越の民が出雲の国を造ったと説いているが、その傍証として次の2つを挙げている。

 

①出雲の銅鐸の原型と思える青磁の鐸が、江蘇州無錫市にある越の貴族の墓から出土した。(2006/2/9 共同通信社より)南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。定説では朝鮮半島の馬鐸が日本に伝わり独自に発展したとなっているが、前述の倭人の移動経路を考慮すると、越から朝鮮半島にも鐸が伝わっている可能性もあり、いずれにせよ、越との関係性があると言えるのではないか。

 

②越王允常(いんじょう)の墓が浙江省紹興市で発見された。印山越王稜である。

驚くことにこの王陵の合掌形の木簡墓は、まるで出雲大社の大社造を地中に埋めたかの姿をしていると、中田力氏は言う。実際、どのくらの相似性があるかは専門家の判定に委ねたいが、有意な相似性があるとすると大きな傍証となる。

 

 私の同郷の友人である清水英明氏は、大手商社勤務時代に主にアジアの情報通信関係の仕事に携わったこともあり、東アジアの民族群の一つであった百越や、照葉樹林文化、長江文明メコン文化圏に関心を持ち、北陸地方の「越」との関連性、すなわち越族・越人、越文化という「越のひろがりとつながり」を研究している。随分以前であるが、彼から越の文化は「蛇と水」の文化であり福井県(越前)にも相通するものがあると熱弁を聞いた。中田力氏の説と相通じるものがあり、私がこの説に乗っかった理由の一つでもある。

 

(参考文献)

『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書

魏志倭人伝の謎を解く』渡邉義浩 中公新書

『新説・倭国史』山本 廣一 中公新書

邪馬台国の全解決』孫英健 言視舎

ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院

『幻の邪馬台国宮崎康平 講談社

倭国伝』藤堂明保 他 講談社学術文庫

邪馬台国 清張通史(1)』松本清張 講談社文庫

『古代日本国成立の物語』小嶋浩毅

 

↓ぽちっとお願いします

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


考古学ランキング

漂泊する避難民・上陸する探索人(2)

 前章では呉の滅亡(紀元前473年)、越の滅亡(紀元前334年)において、日本列島に避難民が漂泊したという仮説を紹介した。

 

 まずは、呉の滅亡に伴う避難民の漂泊の文献や考古学上の痕跡について、紹介する。

 

(呉の民~北部九州への漂白)

 呉の民の漂泊のその痕跡を探索する。第一は北部九州。『魏志倭人伝』の記述では、次のようにある。

「男子は大小となく、皆黥面文身す。」

 呉を建国した太伯は、周の王子でありながら呉に自ら下った。二度と周には帰らないという意志を込めて土地の人間と同じように「黥面文身(入れ墨)」を入れたという逸話がある。邪馬台国の習俗と同じである。

 

 また、『魏志倭人伝』の少し前に成立したとされる『魏略』(魚豢の作)の逸文では、倭人の記載として、

「自謂太伯之後(自ら太伯の後裔と云う)」

と記されている。後に記された『晋書東夷伝』『梁書東夷伝』もその一文を記している。

 すなわち『魏略』が記載する当時使役を通じていた倭人は、口々に「私は呉王の太伯の末裔」だと主張したという。

 

 『後漢書東夷伝』では「使駅の漢に通ずる者、三十計の国ありて」、『魏志倭人伝』では「今、使役の通ずるところ三十国なり」、の記述を考えると、紀元前473年に越に滅ぼされた呉の国の王族・貴族たちは北部九州に漂泊し、稲作文化や青銅器文化を持ち込みムラ・クニを形成し、約500年後の1世紀前後には奴国やその周辺三十国を形成するに至ったと考えてもいいのではなかろうか。

 

「国ごとに皆王と称し、世世統を伝う」(『後漢書東夷伝』)

「古自り以来、其の使いの中国に詣るときは、皆、大夫と称す。」(『魏志倭人伝』)

 

の記載からは、相当のプライドを持った方々と感じられる。越に滅ぼされた呉の民の中でも、特に逃げざるを得なかった王族・貴族の一団だったからだろう。

 海への逃亡から約500年、異国の地で一からクニづくりをしてついに漢王から「漢委奴国王印」の称号を得るまでになった。そう考えてこれらの文を読むと万感さが一層伝わってくる。

 北部九州では、板付遺跡をはじめとする縄文晩期~弥生時代初期の水稲稲作の跡が数見つかっているが、その多くは稲作技術をもった呉の民が漂泊し、定住した地と推測する。

 

板付遺跡 ~ 福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代中期の集落遺跡。小竪穴,井戸,堀,甕棺墓,水田址,大陸との交流を物語る銅剣,銅鉾,磨製石器が発見されている。特に土器は弥生時代最古のもので板付式土器の標式とされ,弥生文化の源流を考えるうえに重要な位置をもつ遺跡である。

 

(呉の民~南九州への漂泊)

 一方、南九州への痕跡としては小嶋浩毅氏の『古代日本国成立の物語』を一部引用させていただく。

鹿児島県霧島市隼人町内に、大隅国一之宮の鹿児島神社がある。主祭神は海幸山幸の弟の方であり神武天皇の祖父にあたる山幸彦の天津日高彦穂々出尊であるが、相殿神として呉の祖である太伯を祀る。鹿児島神社は太伯を祀る国内で唯一の神社である。

また宮崎県の諸塚山(もろつかやま)には、太伯が生前に住んでいて死骸に葬られたという伝承がある。「太伯山(たいはくさん)」とも呼ばれている。(以上、引用終わり)

 

呉の王族・貴族達の漂泊は各地に及んだと推測するが、明示的に痕跡があるのが奴国を中心とした北部九州と、後に隼人の地と言われた南九州の地である。また、出航した江南の地から考えると、沖縄・奄美等の地への漂泊も想像できる。

 

 引用させていただいた小嶋氏の説では、概ね「呉の末裔=隼人=熊襲=狗奴国=日向三代」と比定するが、当方は「呉の末裔=隼人」までは同じだが以降は異なる立場をとる。引用しておきながら、申し訳ない。当方の立場は当ブログを通じて明らかにしていきたい。

 

 次回は、越の滅亡に伴う避難民の漂泊の文献や考古学上の痕跡について、紹介する。

 

(参考文献)

魏志倭人伝の謎を解く』渡邉義浩 中公新書

邪馬台国の全解決』孫英健 言視舎

ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院

『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書

『幻の邪馬台国宮崎康平 講談社

倭国伝』藤堂明保 他 講談社学術文庫

邪馬台国 清張通史(1)』松本清張 講談社文庫

『古代日本国成立の物語』小嶋浩毅

 

↓ぽちっとお願いします

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


考古学ランキング

漂泊する避難民・上陸する探索人(1)

 前章では『魏志倭人伝』を探訪し、邪馬台国を北部九州に比定した。

 

 この章では、もう少し時代を遡り弥生時代の日本がどのように造られたかを探訪してみたい。この時代、文明的な先進国である中国との動向が大きく係わってくる。ここで具体的に述べるのは以下の3つとする。

・紀元前473年 呉の滅亡 

・紀元前334年 越の滅亡 

・紀元前219年 徐福の出航

 

 それぞれの出来事と古代日本の関係を証明する事実は考古学的にも文献学的にもほとんどなく、歴史学者の論文はほとんど無い。学術性が求められるから当然である。

 

 一方、当方は素人の探訪者なので自由に記載させてもらった。記述の多くは、既に多くの歴史愛好家の方々が主張されていることを引用させていただいている。敢えて言えば、その組み合わせにおいては極力オリジナル性を持たせたいと思っている。素人ゆえできることと許していただきたい。

 

(呉の滅亡)

 ここでいう呉は三国志の呉ではなく、春秋時代の呉。周王朝姫(き)姓)の王子であった太伯が建てた国であるため、「姫姓の呉」と言われることも多い。

 

 後述の越とは南側で隣接しており「呉越同舟」の当時者である。また両者の戦いは「臥薪嘗胆」であり、いずれも馴染みのある故事となっている。

 

 結果、呉は紀元前473年に越に滅ぼされるのであるが、その後、越の王は呉の北側に移動し呉を南北で挟む形となった。呉の王族・貴族たちは海上に逃げざるを得なかったと思われる。その結果としての漂泊先が日本列島、特に九州となった。

 

(越の滅亡)

 また、140年後の紀元前334年に、今度は越が楚によって滅ぼされた。越の王族・貴族の一部は海路南下し、現在の福建省の地に閩越(びんえつ)を建てた。一方、取り残された一般庶民達(かつての呉の民を含む、越の人々、以降「越の民」と記す)は、陸地を海沿いに北上するか、かつての呉の王族・貴族のように海へと出航したと考えられる。

 

 漂泊する避難民である。次回以降、彼らはどのようなルートで、どこに漂泊したか、できるだけ根拠を示しながら、かつ、想像たくましく記していきたい。

 

 

中田力著『日本古代史を科学する』より転載

 

↓ぽちっとお願いします

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


考古学ランキング

 

 

 

『魏志倭人伝』を探訪する(3)最終章

 いよいよ今回の記事で、邪馬台国の場所を比定します。『邪馬台国の全解決』の孫宋健氏の説に大枠は準じていますが、若干の補正を行っています。

----------------------------------------------------------------------------------------------

 

 前回のブログでは、『魏志倭人伝』は理念上の邪馬台国を記していると述べた。

 理念であっても実態と違えば嘘である。それでは、『魏志倭人伝』は理念と忖度で嘘にまみれた書なのであろうか?

 

 『邪馬台国の全解決』で孫宋健氏は、陳寿筆法を駆使して記していると言っている。

 

 筆法とは聞きなれない言葉であるが、春秋の筆法に由来するという。『春秋』は魯国十二代の年代記であるが、その筆者の孔子は、その君主の死亡記事の書式を錯(たが)えて書くことで、表面の記事には一切あらわれない裏の史実や筆者からの褒貶の意を込めているという。

 例えば、君主の死を以下のように記述する。

 

 ①隠公 十一年、冬、十有一月壬辰、公が薨ぜられた。

 ②桓公 十八年、夏、四月丙子、公が斉で薨ぜられた。

 ③荘公 三十三年、八月癸亥、公が路寝で薨ぜられた。

 ④閔公 二年、秋、八月辛丑、公が薨ぜられた。   (以下続く)

 

 ここまででも3種類の書き分けがあるという。

 正式には③のように、公が宮殿の室内(路寝は部屋の名前)で亡くなったと書くらしい。しかし、①④は「公が薨ぜられた」と場所を記載していない。これは国内で暗殺されたことを示している。場所を書かないことで、逆に特別な事情=暗殺を示しているという。また。②は他国(斉)で薨ぜられた、とあるが、これは斉により暗殺されたことを示しているという。

 

 このように敢えて書式を錯えることで言外に意味を込めることを、孫宋健氏は筆法と呼び、これを使うことは中国の史家の常套であり、『魏志倭人伝』でも筆法が使われていると言う。

 

 ここまでの説明を聞いて、振り返って『魏志倭人伝』の文章を思い浮かべると、確かに書式を錯えている箇所があると気づく。有名な箇所なので読者も思い浮かべるかもしれない。そう、帯方郡から邪馬台国に至るまでの道程の記述である。

 

 『魏志倭人伝』では、伊都国までは「千余里にして末盧国に至る」というように、「△△里にて〇〇に至る」という記述であるが、伊都国以降は「東南して奴国に至る。百里なり」と「〇〇に至る。△△里なり」と錯えている。豊田伊三美氏・榎一雄氏(※)が放射説を唱える根拠である。

 ※注)放射説は、東京大学榎一雄氏の発案と考えられているが、実はそれ以前に豊田伊三実氏が学会誌に発表している。そのため、このブログでは両氏を併記している。

 

 連続説で邪馬台国の位置をプロットすると、九州の遥か南、沖縄か宮古島あたりとなる。そこで畿内説は南を東と読みかえて、邪馬台国畿内に比定する。

 

 しかしながら、『魏志倭人伝』では、「其の道理を計るに、正に会稽・東冶の東に在るべし」と奇妙な言い回しで断じている。

 連続説で読み解く邪馬台国の地と、会稽・東冶の東という地理、そして魏が敵対する呉を海上から牽制する場所として見事に一致する。

 陳寿邪馬台国の理念上の地への道程として連続説的読み方が可能な記載をしたのだと推察する。しかし「在るべし」という奇妙な言い方は反語であり、実際は別の場所だよと暗示している。

 

 では、実際の場所はどこなのか。陳寿は筆法を巧みに使い『魏志倭人伝』の中に記述をしている。忖度と理念の記述と真実の記述を併存させていると言うのだ。

 

 孫宋健氏は、その解読ヒントとして『魏志倭人伝』での記載と、後の時代に編纂された『晋書』の記載との錯えを参考にすべきという。

魏志倭人伝』では対馬国1,000戸、一支国3,000戸、末盧国4,000戸、伊都国1,000戸、不弥国1,000戸、奴国20,000戸、投馬国50,000戸、邪馬台国70,000戸と記載がある。

 

 私たちや過去の学者たちは、最後の70,000戸の集落である邪馬台国の地を探していた。しかしながら『晋書』では、「魏の時に至りて、三十国の通商あり。戸は七万戸有り」と、三十国の合計が七万戸と言っている。これはどういうわけか。『晋書』の作者が陳寿の筆法を解読した結果だという。

 

 また、『魏志倭人伝』では、女王卑弥呼の国の書き方にも錯えがある。「邪馬台国」「女王国」「女王の都する所」「倭国」である。従来は何の疑いもなく「邪馬台国」=「女王国」であり、それは伊都国、不弥国、奴国と道のりが続くその先に位置すると考えてきた。

 しかし、『晋書』での三十国全体の戸数の七万戸の記述と『魏志倭人伝』での邪馬台国70,000戸の記載の錯えを考えると、陳寿は三十国全体を邪馬台国と称していたのではないか。そうすると女王国の都する所は別にあるのではなくこの三十国のうちの一つであるはず、というのが孫宋健氏の仮説である。

 

 豊田・榎説では見過ごされているが、投馬国に至る「水行すること二十日なり」、女王の都する所への「水行すること十日、陸行すること一月なり」も他の記述と比べると大きな錯えである。なんとこの日程は帯方郡からの日程だと孫宋健氏は喝破する。いわば大放射説(←ネーミングは当方オリジナルかもしれません)である。

 

以上をトータルに表すと以下の図となる。

 

 

 恐るべき陳寿、恐るべき中国の史家たち、恐るべし孫宋健氏と感嘆するばかりである。

 

 陳寿邪馬台国を会稽・東冶の東にプロットし、戸数7万戸の相当勢力を持つ長寿で徳のある国と記すことで、魏への朝貢の道筋をつけた司馬懿を持ち上げている。

 それだけではなく、筆法を駆使することで正しい邪馬台国を併せて記しているわけである。一方、後の史家たちは陳寿の筆法を解読し、自らの編纂する史書でさりげなく正解を記しているというわけである。

 

 結論的に言えば、邪馬台国とは、伊都国・奴国を中核とした北部九州30国のことである、というのが孫宋健氏の仮説であり、当方も賛同する。

 

(探訪する古代史、引き続きのテーマ)

 以上、私が邪馬台国北九州説をとるに至った論拠を紹介した。古代史を探訪する過程の中ではほんの一部であるが、寄って立つべき一つの仮説を持つことができたと、喜んでいる。

 

 引き続き探訪するテーマとしては以下を考えている。

  • 呉・越の滅亡、徐福到来。古代日本の成り立ちをイメージする
  • 古代史のラスボス・饒速日(にぎはやひ)を探訪する
  • 神武東征。なぜ神武は畿内入りをしたのか?
  • 古代の信仰と天文学。太陽の道はどのようにできたのか
  • 張政は本当に邪馬台国に来たのか?

 順不同で興味の赴くまま、探訪する予定である。時には一気に、時には途切れ途切れに。乞うご期待、いや、あまり期待しないでいただきたい。

 

(参考文献)

邪馬台国の全解決』孫英健 言視舎

魏志倭人伝の謎を解く』渡邉義浩 中公新書

 

ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院

『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書

『幻の邪馬台国宮崎康平 講談社

倭国伝』藤堂明保 他 講談社学術文庫

邪馬台国 清張通史(1)』松本清張 講談社文庫

 

↓ぽちっとお願いします

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


考古学ランキング

 

 

 

『魏志倭人伝』を探訪する(2)

 第一回では、自らの立ち位置(邪馬台国北九州説)とその根拠を紹介した。二回目からは『魏志倭人伝』が記された時代背景と作者である陳寿の史家という立場。そこから邪馬台国の場所を探訪してみよう。

 

(好意的に記されている邪馬台国

 『魏志倭人伝』は正式には中国の歴史書三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称 である。東夷伝には他に、夫余、高句麗、東沃沮(とうよくそ)、挹婁(ゆうろう)、濊(わい)、韓の各条がある。その中でも最も紙面を割いているのが倭人条であり、約2000文字である。

 『三国志』研究の第一人者の渡邉義浩氏は、『魏志倭人伝の謎を解く』にて、『魏志倭人伝』は倭国について理念的にしかも好意的に描かれていると述べている。

 例えば、『論語』の一文に「(孔子の子である)鯉が死んだとき、(その墓には)棺はあるが槨(かく)はない」とあるように当時の中国では薄葬が尊重されている。扶余の条では、「厚葬で、郭はあるが棺はない」と記され、高句麗の条では「厚葬」であったと貶められている。それに比べ、倭人の条では「その遺体には棺はあるが槨はなく、盛り土をして塚をつくる」と薄葬であることが明記されている。ちなみに「棺」は北九州一体で多く発掘される「甕棺」であると思われる。

 詳細の説明は省くが、他にも礼の伝承、長幼・男女の別、恵まれた自然を挙げている。

「婦人は淫らならず。妒忌(嫉妬)せず。盗窃せず、訴訟少なし。」であり、「倭人は寿命が長く、あるいは百年、あるいは八、九十年である。」の記述である。当時の神仙思想では仙人が住むと言われる蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の三神山が中国の東方海上あると考えられており、倭人を仙人のイメージに重ねていると思われる。

 

魏志倭人伝が記された時代背景)

 魏の皇帝は「親魏倭王」の称号を卑弥呼に制詔したが、一方、「親魏大月氏国」の称号を中央アジアからインド北部までを支配するクシャーナ朝に付与している。

 当時の魏は江南地域を支配する呉と対立していた。その呉を挟む月氏邪馬台国が魏に朝貢してきた。それぞれに「親魏〇〇」の称号を与えたのである。実際に広大な地域を支配している大月氏国に対して、遠く朝貢してきた邪馬台国の実態は甚だ心もとないが、当時の魏からすると呉の海上支配に対抗する重要な国と認めたのであろう。

 『魏志倭人伝』を含む『三国志』は3世紀後半に陳寿により記されている。陳寿は晋の王朝に仕えた士官である。晋は魏の重臣司馬懿が魏の曹一族を倒し、その息子たちが建てた国である。建前は禅譲であるが実態は家来が主君一族を殺して国を奪う謀反である。陳寿は正史である『三国志』に史家として正しい歴史を記すとともに、晋に士官する身として司馬氏に対して忖度が必要であったと考えられる。血なまぐさい謀反を禅譲と記し、司馬懿の功績を各所に織り込むこととなった。

 

(時代背景から読み説く魏志倭人伝

 このような時代背景から『魏志倭人伝』を読むと、これまで曖昧と思われたいくつかの記述が納得のいくものとなる。

 『魏志倭人伝』は帯方郡から女王国までの距離を1万2千余里としている理由を、渡邉義浩氏は「朝貢する夷狄が遠方であればあるほど、それを招いた執政者の徳は高い。邪馬台国を招いた執政者の徳を大月氏国のそれと同等以上にするためには、邪馬台国は洛陽から1万7千里の彼方にある必要がある。」という。洛陽から大月氏国までが1万6千3百70里であるからでる。また、洛陽から帯方郡までが5千里なので、帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里となるわけである。

 また、邪馬台国が魏に朝貢できたのは、司馬懿が公孫氏を滅ぼしたからであり、司馬懿の功績である。司馬氏が治める晋の士官である陳寿は、その邪馬台国のことを理念的に好意的に記すことで、司馬氏に忖度しているのである。

 

 このように渡邉義浩氏は陳寿の立場を説明するが、同じような観点に立ちながらも、もう一歩進めて、邪馬台国の位置を読み解くのが、孫宋健氏著『邪馬台国の全解決』である。キーワードは筆法大放射説(「大放射説」のネーミングは私オリジナルかも?)。次回、詳細を紹介しますね。

 

(PS)

 こんな昔の話であっても、好意的に書いていると聞くと、ついつい嬉しくなってくるのは不思議ですね。まあ「世界が驚いたニッポン!〇〇視察団」「COOL JAPAN~発掘!かっこいいニッポン」なんて番組を視ている気分です。

 そのうち、「日本人、昔からすごかった。ここがすごいよ、邪馬台国!」なんて番組ができるかもです(笑)。

 

(参考文献)

魏志倭人伝の謎を解く』渡邉義浩 中公新書

邪馬台国の全解決』孫英健 言視舎

ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院

『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書

『幻の邪馬台国宮崎康平 講談社

倭国伝』藤堂明保 他 講談社学術文庫

 

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

 


考古学ランキング

 

『魏志倭人伝』を探訪する(1)

 小学校6年生の時に宮崎康平氏の『幻の邪馬台国』を読んだ。年の離れた兄が読んでいたものを盗み読みしただけである。それでも、盲目の作者が自らの杖で遺跡周りの土の感触を確かめながら調べ歩く記述は、とても印象的であった。

 それから50年ばかり経ったが、最近は仲間達と「古代史実地踏査」と称して各地を巡っている。三輪・纒向、高千穂・西都原、紀・熊野、平原・吉野ヶ里、出雲・丹後、埼玉・稲荷山、と古代史の舞台を探訪してきた。また、関連する古代史本も読んできた。どちらも、古代史の情景を思い浮かべる探訪である。

 自らの頭の中で思い浮かべるだけでなく、少しでもアウトプットをしたいと、当ブログを開始した。どこまで継続できるか自分でも期待していないが、できることなら応援頂きたい。

 まずは、オーソドックスに邪馬台国から考察していきたい。

 

(はじめに)

 邪馬台国を考察する一番の根拠となるのは、陳寿の『魏志倭人伝』である。范曄の『後漢書 東夷伝』や唐の太宗の命により編纂された『晋書』にも記載がある。いずれも中国王朝の正史24史の一つである。

 この3史を主に記述する年代順で並べると、『後漢書 東夷伝』→『魏志倭人伝』→『晋書』であるが、編纂された年代順に並べると、『魏志倭人伝』(3世紀後半)→『後漢書 東夷伝』(5世紀)→『晋書』(7世紀)となる。

 『後漢書 東夷伝』や『晋書』の作者は邪馬台国を記述する際に、陳寿の『魏志倭人伝』を参考にしていることは明らかであり、マスターである『魏志倭人伝』が一番の根拠となる理由である。それでは、他の2史に意味が無いかというと決してそうではなく、『魏志倭人伝』との微妙な記述の差を読み解くことで初めて見えてくる真実もある。これについては後述する。

 一方、『魏志倭人伝』のみを純粋に読み解き邪馬台国の場所を比定し、これを「科学的」と称する書も存在する。邪馬台国ひいては古代史を考察するには、魏志倭人伝、その他の中国の史書古事記日本書紀等の日本の史書、考古学、社寺伝承等の民俗学をトータルに捉えた多次元方程式による考察が必要と考える。

 

(北部九州説と畿内説)

 邪馬台国の場所については数々の説が存在する。北部九州説と畿内説が代表的であるが、各地にその比定地がある。私の故郷である福井県鯖江市周辺もその一つである(笑)。

 『魏志倭人伝』の方角・距離をそのまま地図にプロットすると、はるか南方の海の上に存在することになる。畿内説は方角を読みかえることで解決し、北部九州説は距離を読みかえることで解決しようとするが、『魏志倭人伝』の解釈だけでは優劣がつかない状況が古来続いている。

 私見では邪馬台国=北部九州と考えるが、それは当時の邪馬台国と大陸との関係と、考古学上の調査結果から導きだせる。これは『考古学から見た邪馬台国大和説』で関川尚功氏が、『ヤマト王権の古代学』で坂靖氏(いずれも奈良県橿原考古学研究所で発掘・調査に従事)が論述されていることだが以下説明する。

 『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は景初2年(西暦238年)6月に魏に朝貢すべく帯方郡に使いを出している。その地域に勢力を持っていた公孫氏はその年の8月に魏の将軍である司馬懿に滅ぼされている。景初2年6月はまさに戦いの中であり、そんな最中に帯方郡楽浪郡の南)を経由して魏に朝貢などできないので景初2年は景初3年の間違いとされている。『梁書倭国伝』でも、魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて魏に使いを遣わして朝貢したと記されている。

 逆に言えば、公孫氏が楽浪郡帯方郡を支配していた2世紀後半から3世紀中頃までは、邪馬台国や使訳を通ずる所の三十国は、公孫氏と使訳を通じていたと考えられる。『晋書』の倭国に関する記述「卑弥呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見」の前半部分を「卑弥呼は、宣帝が平定した公孫氏である」と解釈する説もあるくらいである。

 この説の是非はここでは論じないが、当時の邪馬台国楽浪郡帯方郡と密接な交流があったことは間違いない。しかも公孫氏の滅亡の翌年に魏に朝貢するという外交的機敏さを考えると相当密接な交流であったと考えられる。

 一方、考古学の面からみると、3世紀中ごろの畿内では大陸との交流を裏付ける出土物が確認されていない。また畿内説がその有力地とする箸墓古墳纏向遺跡の発展は4世紀に入ってからである点を関川氏、坂氏は説いている。その詳細はここでは割愛するが、以下にて楽浪系土器の分布図を紹介する。これを見ると楽浪郡帯方郡と密接な交流をしていた邪馬台国の場所が自ずと見えてくるのではないか。私が北九州説に立つ一番の根拠である。

ヤマト王権の古代学』坂靖 より転載

 

楽浪系土器

楽浪土城(現ピョンヤン市内)など楽浪郡で生産され、使用された土器。

胎土に滑石が含まれている軟式土器に加え、ロクロを使用しあな窯で焼いた瓦質土器がある。また植木鉢(花盆)形、鼎形、甑形、壺形などその器形にも特色がある。

 

 第一回では、自らの立ち位置(邪馬台国北九州説)とその根拠を紹介した。

次回以降は『魏志倭人伝』が記された時代背景と作者である陳寿の史家という立場。そこから邪馬台国の場所を探訪してみよう。

 

(参考文献)

ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院

『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書

『幻の邪馬台国宮崎康平 講談社

倭国伝』藤堂明保 他 講談社学術文庫

 

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


考古学ランキング