前章では越による呉の滅亡(紀元前473年)により、日本列島に避難民が漂泊したという仮説を紹介した。今回は、その越の滅亡による避難民の漂泊について述べる。
(越の滅亡)
呉の滅亡から140年後の紀元前334年に、今度は越が楚によって滅ぼされた。王族・貴族の一部は海路南下し、現在の福建省の地に現地の百越(ひゃくえつ)族と共同して閩越(びんえつ)を建てた。一方、取り残された一般庶民達(かつての呉の民を含む、越の人々、以降「越の民」と記す)は、陸地を海沿いに北上するか、かつての呉の王族・貴族のように海へと出航したと考えられる。
彼らはどのようなルートで日本のどこに漂泊したのであろうか。中田力氏は『古代史を科学する』で、次のような仮説を紹介している。
「呉の滅亡時と同じような経路で北九州に辿りついていたとしても、それほど不思議なことでない。ただ、その地には既に約140年の歳月をかけて勢力を蓄えてきたもともと呉の民がいた。加えて彼らを率いていたのは自分たちよりも高い家系の王族・貴族の末裔である。その地に留まることは許されず、さらに奥地へと向かって日本海を進まざるを得なかった。そこは出雲・高志の地である。」
越の民が出雲・高志(越)の国を造ったという説は、多くの在野の研究家たちも述べていることである。越の国(福井県)出身の当方としても、この説に乗っかっている。
また、『新説・倭国史』で山本廣一氏は、中国の文献に記載される「倭」の位置と時代から、越の民の移動経路を以下の図のように示している。
この説に全面的に賛同するわけでは無いが、越の民が日本列島に移動してきたルートの一つと捉えてもいいのではなかろうか。朝鮮半島南端の狗邪韓国は倭人の拠点であると知った時には若干の違和感があったが、倭人の集団の幾つかは狗邪韓国経由で日本に辿りついていると考えると納得である。
農学博士の佐藤洋一郎博士によると、日本の水田で作られている温帯ジャポニカ米において多くの種類が「RM1-b遺伝子」持つ。中国では90品種中61品種が「RM1-b遺伝子」持つが、朝鮮半島では55品種を調べても見つからなかったという。
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠でもあり、先着の呉の王族・貴族グループ、続いての越の民の多くは直接日本列島に辿り着いたと考えられ、彼らが温帯ジャポニカ米を日本にもたらしたと考えられる。
先の山本廣一氏の示す「倭人の移動経路」は慧眼ながらも呉・越の民の移動経路の一部を示したものであると判断する。
(出雲への漂泊)
前述のように中田力氏は、後着の越の民が出雲の国を造ったと説いているが、その傍証として次の2つを挙げている。
①出雲の銅鐸の原型と思える青磁の鐸が、江蘇州無錫市にある越の貴族の墓から出土した。(2006/2/9 共同通信社より)南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。定説では朝鮮半島の馬鐸が日本に伝わり独自に発展したとなっているが、前述の倭人の移動経路を考慮すると、越から朝鮮半島にも鐸が伝わっている可能性もあり、いずれにせよ、越との関係性があると言えるのではないか。
②越王允常(いんじょう)の墓が浙江省紹興市で発見された。印山越王稜である。
驚くことにこの王陵の合掌形の木簡墓は、まるで出雲大社の大社造を地中に埋めたかの姿をしていると、中田力氏は言う。実際、どのくらの相似性があるかは専門家の判定に委ねたいが、有意な相似性があるとすると大きな傍証となる。
私の同郷の友人である清水英明氏は、大手商社勤務時代に主にアジアの情報通信関係の仕事に携わったこともあり、東アジアの民族群の一つであった百越や、照葉樹林文化、長江文明、メコン文化圏に関心を持ち、北陸地方の「越」との関連性、すなわち越族・越人、越文化という「越のひろがりとつながり」を研究している。随分以前であるが、彼から越の文化は「蛇と水」の文化であり福井県(越前)にも相通するものがあると熱弁を聞いた。中田力氏の説と相通じるものがあり、私がこの説に乗っかった理由の一つでもある。
(参考文献)
『日本古代史を科学する』中田力 PHP新書
『邪馬台国の全解決』孫英健 言視舎
『ヤマト王権の古代史学』坂靖 新泉社
『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功 梓書院
『古代日本国成立の物語』小嶋浩毅
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