前章では『魏志倭人伝』を探訪し、邪馬台国を北部九州に比定した。
この章では、もう少し時代を遡り弥生時代の日本がどのように造られたかを探訪してみたい。この時代、文明的な先進国である中国との動向が大きく係わってくる。ここで具体的に述べるのは以下の3つとする。
・紀元前473年 呉の滅亡
・紀元前334年 越の滅亡
・紀元前219年 徐福の出航
それぞれの出来事と古代日本の関係を証明する事実は考古学的にも文献学的にもほとんどなく、歴史学者の論文はほとんど無い。学術性が求められるから当然である。
一方、当方は素人の探訪者なので自由に記載させてもらった。記述の多くは、既に多くの歴史愛好家の方々が主張されていることを引用させていただいている。敢えて言えば、その組み合わせにおいては極力オリジナル性を持たせたいと思っている。素人ゆえできることと許していただきたい。
(呉の滅亡)
ここでいう呉は三国志の呉ではなく、春秋時代の呉。周王朝(姫(き)姓)の王子であった太伯が建てた国であるため、「姫姓の呉」と言われることも多い。
後述の越とは南側で隣接しており「呉越同舟」の当時者である。また両者の戦いは「臥薪嘗胆」であり、いずれも馴染みのある故事となっている。
結果、呉は紀元前473年に越に滅ぼされるのであるが、その後、越の王は呉の北側に移動し呉を南北で挟む形となった。呉の王族・貴族たちは海上に逃げざるを得なかったと思われる。その結果としての漂泊先が日本列島、特に九州となった。
(越の滅亡)
また、140年後の紀元前334年に、今度は越が楚によって滅ぼされた。越の王族・貴族の一部は海路南下し、現在の福建省の地に閩越(びんえつ)を建てた。一方、取り残された一般庶民達(かつての呉の民を含む、越の人々、以降「越の民」と記す)は、陸地を海沿いに北上するか、かつての呉の王族・貴族のように海へと出航したと考えられる。
漂泊する避難民である。次回以降、彼らはどのようなルートで、どこに漂泊したか、できるだけ根拠を示しながら、かつ、想像たくましく記していきたい。
中田力著『日本古代史を科学する』より転載
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